「怖かったね。」 と自分に語りかけて安心させる。
怖かったね。
そう、自分に言ってあげる。
実は怖かったこと。
実は、怖いと思っていること。
素直に「怖いね」と、頭の声を聴いてあげる。
自分はここに存在してはいけない。
このままの自分では、存在してはいけない。
それは、人生最大の勘違いだと言われています。
人それぞれに、生まれ持った環境や人生のテーマがあると思います。
その最たる怖さは、「存在してもいいのか」という怖さです。
今の社会では、怖いことを素直に「怖い」と言いづらいものです。
「男は泣いてはいけない」という価値観にも似ています。
これだけのことができなければ、私には存在価値がない。
自分を存在させてあげるために勉強を頑張り、良い成績を残す。
仕事を頑張って、数字を出す。
これだけ稼げたのだから、存在していい。
これだけのことを達成したのだから、存在していい。
だから私は、生きていていい。
自分の存在価値を証明するために、ずっと頑張り続ける。
私自身もそうでした。
現代は、そのような人が多いのかもしれません。
時代の流れもありますし、とりわけ今の時代は、物心ついた頃から、自分の価値を証明するために頑張ってきた人が多いのかもしれません。
自分でも気づかないほど、自分の根っこに、そのような勘違いが生まれてしまっていることがあります。
そして、その勘違いに基づいて、ずっと頑張り続けたとしても、
一生、存在価値を証明するための努力は終わらないといいます。
できないことは許されない。
無能は許されない。
無能な私は、いてはいけない。
そのような罪の意識と思い込み。
存在証明のための頑張りは、「自分は罪人である」という勘違いを償うためにしている側面があります。
本来の自分は、「こんな私でも生きていたい」と伝えるように、
トラブルという出来事を通して、
私たちに気づきを促すことがあります。
目の前に現れた出来事は、自分の内側の状態そのもの。
できる自分もいれば、できない自分もいる。
すべては表裏一体です。
できない自分を消そうとすればするほど、「無かったことにしようとしている自分は、しっかりここにいるんだよ」と、不自然な出来事を生み出すことで主張してきます。
できない自分もいるんだ、と知ってあげる。
できないと認めることは、怖いです。
怖さを紛らわそうとして、頑張っていた時もありました。
その怖さに、
「怖かったね。」
と、共感してあげます。
頭が作り出した勘違い。
その勘違いから生まれた怖さに、「怖かったね」と共感してあげていくと、
「やっとわかってくれたね。」
と、騒ぎ立てていた頭は落ち着き、心に余白が生まれます。
できる自分も、できない自分も、どちらもいます。
怖いことには、
「怖かったね。」
ほんの一言、共感してあげるだけで、心も現実も穏やかになっていきます。
